FAZER LOGIN昼休み、スマホが震えた。
私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。
悠斗からだった。
『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』
私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。
――後輩。
今朝言っていた人だろう。
『わかった。何人?』
すぐに送る。
既読はついた。
でも返信は来ない。
私はしばらく待ってから、小さく息を吐いた。
「藤崎さん、お昼行かない?」
隣の席の佐倉さんが声をかけてくる。
「あ、ごめん。行く」
慌ててスマホを伏せ、私は立ち上がった。
会社近くのカフェは昼時で賑わっていた。
佐倉さんはパスタを注文しながら、ふと思い出したように言う。
「そういえば藤崎さん、またお弁当?」
「うん」
「えら……毎日作ってるよね」
「慣れちゃったから」
「彼氏さんの分も?」
「そう」
「優しいなぁ」
私は曖昧に笑う。
本当は、優しいと言われるたび少し困る。
だって私は別に特別なことをしているつもりじゃないから。
好きな人にご飯を作るのなんて普通だと思っていた。
「うちなんて無理無理」
佐倉さんは笑いながらフォークを振る。
「自分の分だけでも面倒なのに」
「でも佐倉さん料理上手そう」
「いや全然。ていうか、男って甘やかすと何もしなくならない?」
その言葉に、私は思わず苦笑した。
「……そうかも」
「あ、いたでしょ? なんでも彼女任せにするタイプ」
「うーん……」
私は返事に詰まる。
悠斗の顔が浮かんだ。
でも同時に思う。
任せてるっていうか、私が勝手にやってるだけなんじゃないかなって。
頼まれてないことまでやって。
気づいたらそれが当たり前になって。
それって、悠斗だけが悪いんだろうか。
「藤崎さんってさ」
佐倉さんが少し不思議そうに言う。
「尽くすの好きそうだよね」
私は曖昧に笑って、アイスコーヒーを口に運んだ。
苦かった。
午後の仕事を終え、スーパーへ寄る。
私はカゴを持ちながら飲み物売り場の前で立ち止まった。
ビール。
チューハイ。
炭酸水。
悠斗の好みは全部覚えている。
後輩の人は何が好きだろう。
そこまで考えて、ふと手が止まる。
なんで私は、会ったこともない人の好みまで気にしてるんだろう。
別に適当でいいのに。
でも、ちゃんとしたいと思ってしまう。
嫌な気持ちにさせたくない。
居心地よく過ごしてほしい。
そう考える自分に、少し疲れた。
結局私は無難そうなお菓子と飲み物を買って帰った。
部屋に入ると、悠斗はまだ帰ってきていなかった。
私は時計を見る。
午後七時半。
後輩が来るなら、もうすぐだろうか。
急いでリビングを片付ける。
ソファの服を畳んで。
テーブルを拭いて。
洗いっぱなしだったマグカップをしまう。
誰に頼まれたわけでもない。
でも身体が勝手に動く。
その時、スマホが震えた。
『ごめん、やっぱ今日なしになった』
悠斗からだった。
私は立ち尽くしたまま画面を見る。
『そうなんだ。了解』
返信を打つ。
既読はすぐについた。
でも、それだけだった。
私はゆっくりソファに座る。
静かな部屋。
テーブルの上には買ってきたお菓子と飲み物。
なんだか急に力が抜けた。
「……疲れた」
ぽつりと呟く。
その声に自分で少し驚く。
最近、疲れたなんて考える暇もなかった気がする。
やることを探して。
悠斗のために動いて。
ちゃんとして。
そうしている方が落ち着いた。
でも今は何もすることがない。
私はぼんやりスマホを見つめる。
悠斗とのLINE。
『了解』
『お疲れさま』
『気をつけてね』
短い言葉ばかり。
昔はもっとどうでもいい話をしていた気がする。
仕事の愚痴とか。
コンビニの新作スイーツとか。
休みの日どこ行くとか。
いつからだろう。
連絡が、必要事項だけになったのは。
私はスマホを閉じ、ソファに身体を預ける。
天井を見上げる。
静かだった。
でもその静けさが最近少しだけ怖い。
その時、不意にスマホが震えた。
私は反射的に手を伸ばす。
悠斗かと思った。
でも表示されていたのは知らない名前だった。
『秋山 美咲』
私は眉を寄せる。
誰だろう。
次の瞬間、もう一件通知が届いた。
『今日はありがとうございました! またみんなで飲みたいです!』
その下には、笑顔の顔文字。
私はしばらく、動けなかった。
朝倉さんと連絡先を交換してから、三日が経った。 その間、私は何度かスマホの連絡先一覧を開いた。 朝倉蓮。 きちんと登録されている名前を見て、少しだけ落ち着かない気持ちになる。 別に、何かを待っているわけではない。 朝倉さんは小冊子の正式な案内ができたら送ると言っていたし、それまでは特に連絡する用事もない。私から何か送らなければならない約束もしていなかった。 それなのに、スマホを開いた時、ふと名前を探してしまう。 そんな自分に気づくと、少し恥ずかしかった。 以前なら、こういう気持ちを持つこと自体に戸惑っていたと思う。 誰かからの連絡を楽しみにする。 何か話したいことが浮かぶ。 その人が今何をしているのだろうと、少しだけ考える。 そういう気持ちが、自分の生活を相手中心に戻してしまうのではないかと怖かった。 けれど、今は少し違う。 会社ではいつも通り仕事をしているし、帰れば夕飯を作る。先日買った副菜の本から新しい料理を試したり、週末の洗濯をいつ済ませようか考えたりもしている。 その中で時々、朝倉さんのことを思い出す。 今のところ、それくらいだった。◇◇◇◇ 木曜日の夜、私は丸いテーブルで夕飯を食べていた。 メニューは鶏肉ときのこの炒め物に、豆腐の味噌汁。淡い緑の小鉢には、昨日作ったにんじんのナムルを少しだけ入れてある。 副菜の本を参考にしたものだけれど、ごま油を入れすぎたらしく、思ったより香りが強くなってしまった。 それでも鶏肉の炒め物と一緒に食べると、案外ちょうどいい。 私は小鉢からにんじんを取りながら、次はもう少し細く切ってみようと考えていた。 その時、テーブルに置いていたスマホが震えた。 何気なく画面を見る。 そこに表示された名前に、箸を持つ手が止まった。『朝倉蓮』 私は一瞬だけ画面を見つめ、それから箸を置いた。 メッ
◆ 悠斗が一人で暮らすようになってから、台所の使い方は少しずつ変わっていた。 以前は料理をする場所というより、冷蔵庫から飲み物を取り出したり、真琴が用意してくれた食事を温めたりする場所だった。流しに食器が残っていても、翌朝には片づいているのが当たり前で、調味料がどこにあるかさえ曖昧だった。 今は違う。 仕事帰りにスーパーへ寄り、冷蔵庫の残り物を思い出しながら買い物をする。帰宅したら米を研ぎ、必要なら野菜を切る。食べ終えた皿は自分で洗い、翌朝のゴミ出しも忘れないように確認する。 どれも特別なことではない。 以前の真琴が、毎日していたことだった。 その事実を思い出すたびに、悠斗は自分がどれほど何も見ていなかったのかを実感する。 ただ、最近はそこから先の考え方が少し変わってきていた。 真琴は大変だった。 だから自分も家事を覚えなければならない。 最初は、そんな気持ちが強かった。 けれど、一人分の洗濯物を干し、夕飯を作り、散らかった部屋を片づける日々が続くうちに、ようやく分かってきたことがある。 これは反省のためにする作業ではない。 自分がここで暮らしていくために、必要なことなのだ。◇◇◇◇ その日の夕飯は、鶏肉と野菜の炒め物だった。 以前、高瀬から教えてもらった簡単なレシピを少し変えたもので、冷蔵庫に残っていたキャベツとしめじを使った。 鶏肉にはしっかり火が通っている。味つけも悪くない。 ただ、野菜から思った以上に水分が出て、少しべちゃっとしてしまった。「……まあ、食えるな」 悠斗は皿に盛りつけ、味噌汁と一緒にテーブルへ運んだ。 味噌汁には豆腐とわかめを入れてある。以前は味噌の量が分からず、薄すぎたり濃すぎたりしていたが、最近は計量スプーンを使わなくても、ある程度同じ味にできるようになった。 食べながら、ふとスマホに目が向く。 真琴に写真を送りたくなることは、今でもあった。
朝倉さんから預かった封筒は、しばらく丸いテーブルの上に置いていた。 もちろん、置きっぱなしにしていたわけではない。 何度か封筒に戻し、バッグに入れようとして、また出した。 写真カードを眺める。 二つ折りの紙を開く。『棚の上で待つもの』 その仮のタイトルを読むたびに、工房で見た棚の器を思い出した。 まだ誰の家にも行っていない器。 でも、寂しいわけではなく、静かに次の場所を待っているように見えた器。 あの日、私はその写真が好きだと言った。 朝倉さんは、それを覚えていてくれたのだろうか。 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。 写真カードは、食器棚の青みの深皿と淡い緑の小鉢の近くに一度置いてみた。 並べてみると、少し不思議だった。 工房で見たもの。 書店で受け取ったもの。 私の部屋にあるもの。 別々の場所から来たはずなのに、静かにつながっている。 私はカードをしばらく眺めてから、封筒に戻した。 今度、朝倉さんに会えたら、ちゃんと自分で言おう。 ありがとうございました。 小鉢、使っています。 それから、写真カードも嬉しかったです。 何度か頭の中で言葉を並べてみる。 でも、準備しすぎると、かえって不自然になる気がした。 だから最後には、封筒をバッグに入れて、それ以上練習するのをやめた。◇◇◇◇ 週の半ば、仕事帰りに書店へ寄った。 朝倉さんがいるかどうかは分からない。 でも、カードのお礼を言いたい気持ちは、ちゃんと私の中にあった。 書店のドアを開けると、いつもの紙とインクの匂いがした。 掲示板には、新しい案内がいくつか増えている。 読書会。 地域の映画上映会。 小さな手作り市。 そこに、朝倉さんの小冊子の正式な案内はま
副菜の本を買ってから、私は何度かそのページを開いた。 にんじんのナムル。 きのこのマリネ。 豆腐の和え物。 どれも難しい料理ではない。 それでも、淡い緑の小鉢に入れることを考えながら見ると、少しだけ楽しくなる。 週末には、きのこのマリネを作ってみた。 酢を少し入れすぎた気がする。 でも、冷蔵庫で少し置いたら味が馴染んで、思っていたより悪くなかった。 小鉢に入れると、量もちょうどいい。 食卓の端に置いたそれを見ながら、私はまた少し笑った。 前なら、失敗したかどうかだけを気にしていた。 今は違う。 次はもう少し酢を減らそう。 しめじだけでなく、舞茸も入れてみよう。 そう考える時間まで、少し楽しい。 小鉢はもう、食器棚で特別扱いされなくなってきていた。 朝、自然に手に取る。 夜、少し残ったものを入れる。 洗って、拭いて、また棚へ戻す。 その繰り返しの中で、少しずつ私の器になっていく。◇◇◇◇ その日の仕事帰り、私はまた書店へ寄った。 朝倉さんに会えるかもしれない。 小冊子の案内が出ているかもしれない。 そういう気持ちはあった。 けれど、今日はそれだけではない。 副菜の本の隣にあった料理エッセイが気になっていたし、掲示板の読書会案内も少し見てみたかった。 書店のドアを開けると、いつもの紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、季節の本が並んでいる。 私はまず掲示板を見た。 読書会の案内。 地元作家のトークイベント。 手作り市。 小冊子の案内は、まだなかった。 少しだけ残念に思う。 でも、その残念さに足を引っ張られるほどではない。 私は暮らしの棚へ向かった。 棚の前で料理
小鉢を使った朝から、数日が経った。 私はその間にも、何度か小鉢を使った。 おひたし。 冷奴。 少しだけ残ったかぼちゃの煮物。 最初は少し緊張しながら手に取っていたけれど、三回目にはもう、食器棚から自然に出せるようになっていた。 淡い緑の小鉢は、青みのある深皿の隣で、前からそこにあったみたいな顔をしている。 もちろん、前からあったわけではない。 工房で選んで、包んでもらって、電車に乗って、パンと花と一緒に部屋へ持ち帰った。 それなのに、使い始めると少しずつ「特別な新入り」ではなくなっていく。 それが少し嬉しかった。 食器棚を開けるたびに、私は朝倉さんの言葉を思い出す。 迷う時間も、たぶん器を選ぶ時間の一部です。 あの時、私は迷って、考えて、自分で選んだ。 だからだろうか。 使うたびに、その迷った時間まで一緒に食卓へ出てくるような気がした。◇◇◇◇ その日の仕事帰り、私は書店の前で足を止めた。 工房へ行ってから、まだ朝倉さんには会っていない。 作家さんにも、小鉢を使った感想は話せていない。 でも、話したいことはもうある。 おひたしを入れたこと。 少し醤油が強かったこと。 主役ではないけれど、あると食卓が落ち着いたこと。 冷奴を入れたらちょうどよかったこと。 使うたびに、棚の中での場所が少しずつ自然になっていくこと。 そういう小さな話が、私の中に溜まっていた。 書店の掲示板には、もう工房販売会の案内はなかった。 代わりに、新しい読書会の案内と、地元作家のトークイベントのチラシが貼られている。 朝倉さんの名前はない。 それでも私は、店の中へ入った。 会えるかもしれない。 会えないかもしれない。 そのどちらでも、今日は少し本を見たかった。
翌朝、私はいつもより少しだけ早く目が覚めた。 部屋の中は静かで、カーテンの向こうから淡い光が入っている。昨日替えたばかりの花は、水色の花瓶の中でまだ少し眠たそうに見えた。 淡い黄色の花と、白い小さな花。 薄い青のカーテンの前にあるその色を見て、昨日、本当に知らない町まで行ったのだと思い出す。 工房。 土の匂い。 ほうじ茶の温かさ。 作家さんの声。 朝倉さんの笑い声。 全部、昨日のことなのに、もう少し遠い場所の出来事みたいだった。 でも、食器棚を開けると、そこに淡い緑の小鉢がある。 それだけで、昨日のことがちゃんと今朝につながった。「おはよう」 私は小さく言って、小鉢を取り出した。 まだ一度も使っていない器。 工房では手の中に馴染むと思ったけれど、部屋の台所で持つと、また少し違って感じる。棚に並んでいた時とは違い、これから本当に使われるものとして、私の手の中にある。 最初に何を入れるかは、昨日から少し決めていた。 おひたし。 特別な料理ではない。 でも、この小鉢には合いそうだと思った。 冷蔵庫には小松菜が残っている。私は鍋に湯を沸かし、小松菜を洗った。朝からおひたしを作るのは少し面倒かもしれないと思ったけれど、今日はその面倒さも悪くなかった。 小松菜を茹でて、水に取る。 ぎゅっと絞って、食べやすい長さに切る。 少しだけ醤油をかけて、すりごまを振る。 前なら、朝はもっと急いでいた気がする。 悠斗のお弁当を作っていた頃は、段取りばかり考えていた。卵焼き、冷凍しておいたおかず、味噌汁、朝食、ゴミの日、洗濯物。自分の朝は、いつも誰かの朝の端に押し込まれていた。 でも今朝は、誰かに出すためではなく、私が食べるためのおひたしを作っている。 小さな器を使いたくて、少しだけ手間をかけている。 それは面倒なのに、ちゃんと楽しかった。
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。







